オン ザ ソファ

一人きりで暮らしているから、どうでもいいことを聞いてほしい

お笑いニシヒガシ

においと記憶は結びつきが深いと聞いたことがあるが、私はあまり共感できない。シーンに特異的なにおいってそんなにあるだろうか?料理の匂いは様々な場所で嗅ぐのでいちいち「これはあのときの…!」とはならない気がするし、毎年季節の変わり目に夏っぽい匂い、秋っぽい匂い、と感じたりすることはあるが、あれは何かを思い出しているのとはなんとなく違う気がする。普通はどんなにおいとどんな記憶が結びついているのだろう?と調べてみたところ、どうやら以前付き合っていた恋人がつけていた香水だとかシャンプーの香りを嗅ぐと、その人との思い出が蘇る、みたいなことらしい。やはり、あまり共感できない。恋人でも友人でも家族でも、その人に特有のにおいというのは思い浮かばない。慢性の鼻炎だからだろうか。

そんな私の場合は、音楽と記憶が深く結びついていると感じる。例えば、私は大学院生の頃MIKAというアーティストの曲を聴きながら色々な場所を散歩していたのだが、今でもMIKAの曲を聴くと、その散歩道の景色が点々と思い浮かぶ。よく見かけた犬、桜、紫陽花、蛍、汚い猫、青空と緑の山のコントラスト、やたら多い地蔵、変な神社、落ち葉、菓子パン食べてたら襲ってきたトンビ、鴨、鹿、ヌートリア、衝動買いしたチョコケーキ、橋の真ん中から見た、夕焼け色の川。他にも当時の悩みごとだとかハマっていたものだとか、色々なことが次々に蘇る。私にとって昔よく聴いていた曲を聴き返すことは、アルバムを読み返すこととよく似ているのだ。仙台に引っ越して以来まだ一度もこのあたりを散歩していないのだが、もしその時が来たら、必ず新しい曲をダウンロードしてから出かけようと思う。

 

この三連休は、私の幼なじみが関東からはるばる遊びに来てくれていた。彼女たちは基本的に心の優しい可憐な婦女子であるが、幼なじみだけで集まったときはどういうわけか、理不尽で野蛮な略奪者に転身する。そこで彼女たちのことは畏敬の念をもって山賊A、山賊Bと呼ぼう。ちなみに後ろに付いているAとBはそれぞれの血液型に由来している。

幼なじみの欲目もあるだろうが、彼女たちは面白い人たちだ。

関西に染まりきった東京出身の友人によると、飲み会や日常会話の場において、関西の笑いは誰かがボケて誰かがツッコむという形を基礎としたみんなで作る笑いであるのに対し、関東の笑いは誰かを標的にして各人がユーモアを利かせたイジり・ディスりを披露する個人プレー的な、ブラックな笑いであるという。

この言い方をそのまま借りれば、先ほど紹介した山賊Aと山賊Bは、関東の笑いのエキスパートである。彼女たちは気の利いた比喩や小ボケといった小細工は一切使わない。彼女たちの武器は、ディスる隙があれば即ディスる瞬発力と、そのディスのあまりに高い攻撃力である。

兎にも角にもひどいのだ。もう標的の身体的特徴だとか、口癖だとか、ちょっとした発言や変わった仕草をとんでもない言い草でディスる。もちろん私も子供の頃から、よく彼女たちの口撃の的にされていた。中学の頃は、私の後頭部があまりにも平らであることから頭文字D(イニシャルディー)というあだ名を付けられたり、大学生の頃は、私が「最近友人によく可愛いって言われる」と少し調子に乗った途端「それ、ゴリラの赤ちゃん見てんのと同じ感覚で言ってんだよ」とバッサリ切られたりした。同じ女性同士とはいえ、思春期や年頃の女子に対し言って良いことと悪いことがある。しかも言っている本人たちの顔がそれなりにかわいらしいので余計に深い傷が付く。しかし、彼女たちにディスられるとき、自分のことであるにも関わらずいつも思いきり噴き出してしまうのもまた事実である。

 

 

ところで先ほどは都合上、ボケとツッコミで作る笑いを関西の笑い、ディスり主体のブラックな笑いを関東の笑いという分類をそのまま流用したが、実のところ私自身は、あまりこの分類は的確でないと感じている。というより、『ボケとツッコミ』による笑いは、関西で育った人間だからといって容易にできるものではないのだ。だから、安易に“関西の”と括りを大きくしてしまうことに抵抗を感じる。

まず飲み会や日常会話の場で作られる笑いは、そのほとんどが個人プレーによって生み出されるものである。個人プレーによる笑いの取り方には様々なタイプがあり、先に挙げたディスり・イジりといったバラエティ番組型の他、ちぎり取った自尊心を笑いに変える自虐アンパンマン型や、ちょっと面白いことをちょくちょく言ってヒットで稼いでいくイチロー型もその例だ(ちなみに体感だが、見た目が大して良くないのに何故か女から一定の人気がある男は大抵このイチロー型である)。これらの笑いは比較的手軽であるため、関東と言わず全国各地で見られるのではないだろうか。

一方で、『ボケとツッコミ』は特殊である。私はこの現象を関西に行って初めて目にした。というか、“ボケられる”人間を初めて見た。

関東でも一応、ツッコミというものは見られたと思う。しかし、そのツッコミの元となるボケは、大抵がいわゆる天然ボケであった。何が違うのかと訊かれると上手く言えないが、天然ボケはボケた本人にとっては何でもないただの行動であり、誰を笑わせるためにしたことでもなくツッコミも求めていない。そのため、これに誰かがツッコんで起きた笑いはほとんどツッコんだ人間の個人プレーによるものであり、ツッコむポイントもツッコむ人間の意思のみによって選ばれる。構造的には、イジりの笑いとほぼ同じなのだ。

一方で、きちんと考えた上でのボケには明確に『欲しいツッコミ』が存在する。せっかく上手くボケたのに、欲しいツッコミがもらえなかったときのがっかり感は大きい(らしい)。しかも天然ボケは単体でも笑える場合があるが、作為のボケはツッコミを受けて初めて成立する場合が多いため、欲しいツッコミがもらえない=スベっているとなってしまうことがよくある。つまり“ボケる”とは、瞬時にボケを考えつく頭の回転とそれを実行する勇気の他、ツッコミどころをわかりやすくする、あるいはツッコんでくれそうな人間を嗅ぎ分けて近くに置いておくといった工夫も必要になる、とても高度な技術なのである。

もちろん、ツッコミも全くもって容易ではない。事前に打ち合わせされた漫才やコントではなく、台本も何もない日常の会話において、特に脈絡もなく繰り出されたボケのその真意、つまりツッコミどころを的確に見抜き簡潔な言葉で指摘するという、高等テクニックが要される役割である。

つまり『ボケとツッコミ』とは笑いのために果敢に切り込むボケと、それをしっかりフォローするツッコミがいて初めて完成するとても難易度の高い行為なのだ。大抵の人間はこれを遂行するための労力を惜しみ、またスベるリスクを恐れて、難易度が低く失敗してもダメージの少ないディスりやイジりで笑いをとろうとする。しかし、一見わかりにいボケの意図が、鋭いツッコミによって暴かれて笑いに昇華される瞬間のあの感動は、他では得がたいものがある。

と、ひとしきり褒めたが、別に私はこの『ボケとツッコミ』が好きなわけではない。というのも、ボケツッコミができる、というよりボケツッコミを好む奴らは、たいてい周りのボケツッコミが得意じゃない人々にもボケツッコミを求めてきたりするからだ。会話の節々で小ボケをかましてきて、こちらが返答に窮する様を見て笑ったり、的外れなツッコミを返されて逆に引いたりしている。はた迷惑もいいところだ。しかし、時たま偶然に上手い返しをすることができたとき、それまでの恨みを忘れてたちまち嬉しくなってしまう自分がいることも、また事実である。

 

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