オン ザ ソファ

一人きりで暮らしているから、どうでもいいことを聞いてほしい

おい、カネコ!!

 前回は試食販売のアルバイトをしていたときのことについて話したので、今回はそのアルバイトを始める直前、私が巻き込まれたちょっとした事件について話そうと思う。

 

 

 

 大学1年生の夏、私は渋谷区のとあるビルを訪れていた。試食販売員バイトの研修を受けるためだ。インターネットで試食販売の求人に応募したところ、「それではこの日この事務所へ、研修を受けに来てください」とメールで指示があったのだ。

 

 事務所はビルの7Fに入っていた。エレベーターで、同じ階へ向かう若い女性と一緒になった。「バイトの人?」と訊かれ、「そうです」と答えると、彼女は「私もです」と言って笑った。笑顔と声の柔らかい人だった。彼女は3年ほど前からこのアルバイトをしているそうで、事務所に着くと、社員らしき人たちに「新しいバイトの源さんだそうです」と私を紹介してくれた。

 

 私と彼女は、事務所の一番奥の部屋に通された。8台くらいの、古い事務机がみっしりと置かれた部屋だった。冷房が強く効いていて、確かあのときは7月だったのに、室内はとても寒かった。私と、一緒に来た彼女は、それぞれ事務机に着席するよう指示された。研修まではもう少し時間があるはずだったが、席は私たちでぴったり満席になったようだった。

 

 

 こんなところで研修を受けるのか?経験者であるはずの彼女まで、一緒に座っているのは何故だ?

 

 

 思えばこのとき、現場には既に『話と違う』雰囲気が色濃く漂っていた。しかし高校を出たばかりで世間知らずで、有り体に言えば“ボヤっと”していた当時の私は、周囲に山と転がる違和感の塊をさほど気に留めず、「余った試食って持ち帰れたりするんですかね?」と、エレベーターの彼女にIQの低い質問をしていた。彼女は、「禁止されてるみたいだよ」と教えてくれた。

 

 私たちが入室してすぐ、青色のジャケットを着た、責任者らしき男性が入ってきた。眉間に皺を寄せ、忙しなく時計を気にしていて、イライラしている様子が一目で見て取れた。

 

 (全員集まっちゃったから、予定より早く始めるのかな?)

 

 私が、呑気にもそんなことを思ったとき、男性は室内の人々に向かって、こんなことを言い始めた。

 

 

 「それじゃあいつも通り、8時から販売員の皆さんから電話が来るので、随時対応して必要事項を確認してください」

 

 

 ─────で、電話!!!?

 

 

 上司はおろか、顧客にさえ媚びへつらわない傲岸さから最強を謳われる我々ゆとり世代であるが、当然弱点は存在する。それが電話である。

 私たちが思春期を迎える頃には、既に携帯電話のメール機能や、掲示板サイトのチャット機能が十二分に発達していた。そのため、上の世代に比べて「電話越しに会話する」という経験が圧倒的に少ないのだ。

 

 

 冗談じゃない!私は研修を受けると聞いてここに来たのに、一体なにがどうして、電話を取る取らないの話になるのか。私はひどく混乱しながら、控えめに挙手して男性に質問した。

 

 

 「すみません、電話、するんですか?」

 

 「そうだよ」

 

 「あの、聞いてないです。やり方、わからないです。研修は……?」

 

 「えっとね、説明することあるから早めに来てって連絡したと思うけど、キミ来なかったよね?」

 

 「いや、早めとかは……特には……」

 

 「いやいや、連絡したよちゃんと。今、メール見せようか?」

 

 

 私の言い分は全く聞き入れられず、取りつく島もなかった。嘲るような冷たい口調が恐ろしくて、異議を申し立てたくても、上手く喋ることができなかった。

 

 

 そのとき、机の上の電話が鳴った。隣の席の女性社員が素早い手つきで受話器を取り、何事かを喋り始めた。そして次の瞬間、堰が切れたように、部屋中の電話が次々と鳴りだした。8時になったのだ。

 

 

 「もう、良いから。必要なことは全部マニュアルに書いてあるから、それを見ながら自分でやって」

 

 

 男性はそう言い捨てて、自分の持ち場へ戻って行ってしまった。

 

 状況を飲み込むことができず、私は完全にフリーズした。ちょうどこの頃から広まり始めた、『ブラック企業』の文字が頭の中で点滅していた。鳴り止まない電話機を呆然と見つめていると、今度はさっき、最初の電話を取った女性社員がこちらに話しかけてきた。

 

 

 「何やってんの?電話取って、早く」

 

 「あの、私、試食販売やりに来たんですけど……」

 

 「え?じゃあ今から行く?笑」

 

 「あっ……、良いんですか?」

 

 「いや、良いわけないじゃん。早く仕事して。しないなら帰って」

 

 

 本当ならこのとき、私は、このアマの言うとおりに帰ってしまえば良かったのだ。

 

 しかし、私は帰らなかった。あまりにも理不尽な社員たちの態度に、完全にキレてしまったのである。そして、怒って泣いて叫ぶより、棍棒を持って暴れるより、一番悪いキレ方をした。「上等だよ、やってやるよ」と、そう思ってしまったのだ。

 

 

 怒りによって逆に冷静になった頭で手元のマニュアルを読むと、やるべきことはごくごく単純であるようだった。

 試食販売のバイトは、寝坊や迷子による遅刻を事務所が事前に把握できるよう、出勤中のいくつかの時点で電話連絡を入れることが義務づけられている。そこの事務所では、 ①朝8時(起床確認) ②家を出たとき ③出勤先のスーパーに着いたときの3回、電話をかけることになっていた。私がやるべき事は、かけてきた人の名前を確認し、起床・出発・到着のそれぞれの欄に✓を入れていくだけだった。

 

 ただそれだけのこと、とわかってしまえば、もう怖いものはなかった。私は出来る限り明るい声を出しながらバシバシと受話器を取り、ついでに何故か半ギレで投げられてくる別の業務もこなし、そうしているうちに、気付けばあっという間に4時間が経っていた。ちなみに、私が事前に聞いていた研修の所要時間は1時間だった。

 

 業務が落ち着いた頃、責任者らしき男性が再び姿を現した。そして先ほどとは打って変わって優しい笑顔で、私に話しかけてきた。

 

 「いやー、カネコさん!最初は心配だったけど、ちゃんと頑張ってくれたね!」

 

 「源ですね……」

 

 「え?」

 

 「カネコじゃなくて、源ですね……私……」

 

 

 源爽(みなもとあきら)という凛々しくて品の良い名前はハンドルネームであるため、本名ではない。しかし、私の本名はカネコでもない。

 

 

 要するにこれは、いくつかの偶然が重なり合うことで奇跡的に生じた、悲しい事故であったのである。

 この事務所では、試食販売員のアルバイトの他に、そのアルバイトたちを管理するための、事務員のアルバイトも雇っていた。そしてこの日、事務員のバイトとして初めて来るはずだったカネコなる人物が、どうやら無断欠勤をしたらしいのだ。

 カネコを採用した奴がいなかったのか電話面接だけだったのか、細かいことはわからないが、とにかくあの日あの場所にカネコの顔を知る者はなく、時間ギリギリになっても出勤してこないカネコに業を煮やした面々の前に、偶然事務のバイトの女性(エレベーターで一緒になった人)と一緒に現れた私が、運悪くカネコと勘違いされたのである。ちなみに私が本来参加するはずだった研修は、隣の部屋で予定通り行われ、とっくの昔に終了していた。

 

 「えーっ、ウソ!ごめん!」

 

 「いきなり無茶言われて怖かったでしょ?ブラック企業と思ったんじゃない?」

 

 「でもその状況で、よく頑張ったね!ありがとう!」

 

 事務所の人たちは口々に謝ってくれたし、私の頑張りを認めて褒めてもくれた。しかし、あの「やってやるよ」の覚悟が報われたような気は、少しもしなかった。

 午後にも同じ研修があると言われたが頑なにお断りし、働いた分の給料だけもらって、私は逃げるように家路についた。

 

 

 

 私がこの経験で学んだのは、……、なんだろうな……。

 

 とにかく、人生、被害者になりそうなときはとっとと逃げた方が良いのだ。

 今回の場合、まず諸悪の根源は当日にバイトをバックレたカネコであるが、事務所側にも私の話を一切聞かず、名前の照らし合わせすらしなかったという落ち度があり、結果的に『急に生じた欠員を、全く関係ない10代女性に無理やり埋めさせる』という、なかなかハイレベルな暴挙に出ていることがわかる。

 

 もしこれがフィクションなら、私が慰謝料をふんだくって相手にギャフンと言わせたり、身分を隠していた8代目の将軍が社員たちを成敗してくれたりするのだが、現実世界に勧善懲悪の法則はインストールされていないので、私はただ涙目になりながら、道玄坂の脇道を歩くことしかできなかった。強きを挫いてくれる人がいない以上、弱き我々は理不尽なことにエンカウントする前に、全力ダッシュで逃げ出す他ないのである。

 

 

 この教訓は、その後の私の人生でもそこそこ役に立っている。そう考えると、この事件もそう悪い体験ではなかったのかもしれない─────

 

 

 

 

 

 ──────なんて、言うはずがあるか!!

 

 おい、カネコ!!お前のことは絶対に許さないからな!!!!!!!

 

 

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