神は死んだ!
というのはドイツかなんかの哲学者であるニーチェの言葉であり、彼が生きた19世紀後半には科学技術や資本主義が発達して、人々の心からキリスト教における神様や天の国に対する信仰が失われつつあった状況を表現したものらしい。
ニーチェ……。敬愛するミステリー作家、伊坂幸太郎の初期の作品に、よくその名前が出ていた気がする。私は伊坂幸太郎を読んでニーチェを知ったのだ。
伊坂がニーチェを愛するなら私もそうしよう……と、冒頭のセリフが出てくる「ツァラトゥストラはかく語り」という本をブックオフで買ったものの、なんか文体が古くて読みにくい上、全ページに夥しい(おびただしい)量の用語解説がついていたので、数ページ読んだだけで挫折した記憶がある。
ここ数年で積ん読、つまり一度も読まずに本棚に差してあるだけの本が随分増えた。
ゲーム、漫画、Youtube、サブスクのアニメ・映画……文章を読むより手軽な娯楽が世の中には山ほどあるのだ。私の積ん読が増えるのも道理であるし、この爆笑軽妙痛快ブログが流行らないのも道理である。
でもこの年明け、海外勤務から帰って来た友だちを迎える会に参加したのだが、そのとき久々に会った何人かが、このブログを読んでいる、また続きが更新されるのを楽しみにしていると言ってくれた。
たとえ他に話題がなかったために出た社交辞令だったとしても、そんな風に言われたら嬉しくなってしまうのがこの私の可愛いところである。
そういうわけで、宴の席よりも話題に苦しむこのブログ執筆をえっちらおっちら再開してみたのであり、その話題に選んだのが冒頭の「神は死んだ!」なのである。
神は死んだ! と憂うほど、私は宗教に親しみがない……と言いたいところだが、実はわりとある。私は結構ゲンを担ぐ方だし、結構神頼みをする方だったのだ。
まぁ、あくまでも、「だった」だ。今年からは違う。
就活をしていた頃、私は希望の企業から内定が出るよう有名な神社で祈ったし、社会人になって恋人と別れてからは、同じくフリーの幼馴染と一緒に旅行する度、旅先の恋愛関係の神社を巡った。初詣には毎年行っていたし、去年は芸事の神様を祀っていることで有名な車折神社にも行ってきた。結果は、話の流れから察してほしい。神は死んでいる。
まぁ確かに、行く先々の恋愛神社では無駄に格好をつけて(?)「恋の縁より金の縁!」と、こういった文章業やイラストなんかが収入に結びつくことを祈願したものだが、別にそっちだって叶っていないし。 一方で幼馴染の方はというと、去年の夏くらいから彼氏ができて、突然アザラシの赤ちゃんをスマホの待ち受けにしているなと思ったら「え? なんかぁ、彼氏のお母さん的に、彼ってゴマちゃんに似てるらしくって(笑)」という風な仕上がりである。
クソが!!!!
だったら私だって今頃、売れっ子エッセイストとかになっていて然るべきだろうが!?
そういう憤懣やる方ない経緯があって、私は今年から神頼みを廃止したのだ。お参りには付き合いがあれば行くが、賽銭は神様へのお供えではなく歴史的建造物の設備投資として献上する所存である。
まぁそもそも、キリスト教だろうが神道だろうが、神様は基本的に人々の心の拠り所になってくださる存在であり、個人の細かい願い事をどうこうするものではない。幼馴染に彼氏ができたのは彼女が魅力的だからであり、私が世界的エッセイストになっていないのはシンプルに拡散力不足である(実力は足りている)。
人事を尽くして天命を待つという言葉があるが、ロールプレイングゲームのサブクエストがいつまで経ってもやり尽くせないのと同じように、人事(人間の力でできる事柄)も案外めちゃくちゃ沢山あるものだ。私はまだ天に身を委ねられるほど、やりたいことをやりつくしていない。
人事を尽くすしかないのだ、人事を尽くすしか……。
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